さらなるひとりごと

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第11話 こころのミッシング・リンク〜スイス・アーミーナイフとしての心〜

ルーシー
ルーシー    (駐日エチオピア大使館ホームページより)

宗教にしても、過去の哲学的考えにしてもヒトは『特別な者』としていつも他の動物たちとは区別されていた。その理由として、我々ヒトが『言葉』『こころ』を授けられたただ一つの選ばれた者という意識が根底にあるようです。そしてこの言葉とこころの特殊性にその根拠があるように思います。
我々にいちばん近いとされるチンパンジーは言葉を持たないし、また我々の言う心も持っていないようにみえます。

創造主義者たちの言うように、心は突然完全にできあがった状態でひょっこり出てきたのでしょうか?彼らの見方では、心は神の創造の産物なのです。

ダーウィンが「ミミズと土」の中で示した『ミミズの心理学』は心に関しての進化の仮説を提供しています。
ロビン・ダンパーは言葉の起源をサルの毛繕いにあるとしています。裸のサルの井戸端会議はまさにサルの毛繕いにあたります。

発生学を勉強したものは個体発生が系統発生を繰り返している事実に驚嘆してしまいます。爬虫類の顎の5個の骨のうち3個は哺乳類では耳小骨(つち・きぬた・あぶみ)へと進化し、哺乳類には必要のない鰓や脊索が、発生のある時期姿をあらわします。
こころも同じく特別のものではなく進化の歴史の中で、私達裸のサルが獲得してきたものとして説明できるように思います。

R.ドーキンスは、母とその娘1対1の関係という途切れることのない関係、この系譜の鎖がどれほど短いかを気付かせてくれました。

あなたが東京駅の1番線下りのレールの上に立ったとしましょう。あなたと同じ下りのレールに軌道幅1435mmで向かい合って立っているのは、あなたと同年齢同性の多摩動物園のチンパンジー。あなたは左手をあなたの母親の右手をつないでいる。あなたの母親はその母親(あなたの祖母)と同じく左手でつないでいる。チンパンジーも同じように、右手をその母親とつないでいる。こうして途切れることのない2本の鎖は大阪、福岡方面へと延々とつながっていきます。

ところでこの二本の鎖はどこで1人の母親に収束し、その右手はあなたの遠い祖先と手をつなぎ、その左手はチンパンジーの祖先と手をつないでいるのでしょう?
ミトコンドリアDNAの突然変異の解析でおよそ600万年前にチンパンジーの祖先と裸のサル(ヒト)の祖先が別れたことはほぼ間違いはないようです。

1世代20年とすればおよそ30万世代。手をつなぐ母親との距離を1.5mとすれば、45万mすなわち450kmです。東京から京都までが467km。京都駅の少し手前であなたの遠い祖先とあなたに向き合ってるチンパンジーの祖先が、同じ母親の両手を介してつながってることになります。
あなたの目の前にいる多摩動物園のチンパンジーは、あなたの遠い遠い従兄弟なのです。

その途中、浜松駅あたりではルーシーが違う線路上に立っていることになります。
ルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス)は身長およそ1m20cm、脳容積はおよそ500cc、股関節、骨盤の形状から直立してあるいていたと思われます。
あなたの遠い祖先はルーシーと従兄弟だった可能性もあります。

さらに新横浜駅から東京駅まであと2kmの地点(世代にして1万世代から1500世代前)には、ホモ・サピエンス・サピエンスの亜種とされるネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス)が異なるレールの上に姿を見せます。彼らは旧石器時代中期のムスティエ文化の担い手であり、言葉を話し(母音が2種類程度だとの説もある)剥片石器を使い、死者の埋葬も行っていたようです。彼らは我々とどんな関係があり、どんな差があり、どんな心をもっていたのだろうか?
そして彼らは消え、我々は残った。

そして最後の氷河期が終わったのがおよそ1万年前、世代にして500世代。東京駅を出てまだ1kmも行ってないレールの上に立っているの我々の祖先は、氷河期の地球に住んでいたのです。

現代人類の心のあり方は、それを進化の産物だとみることによって理解できるようです。心は偶然によっては生じないような複合的機能的な構造物だということです。まず神の介入の可能性を無視するとすれば、このような複合的なものが生じうる過程としては、自然選択による進化だけが知られています。この点では心を他の身体の器官を扱うのと同じように扱うことです。もっと明確に言えば、人間の心は、人間の祖先が旧石器時代の環境を狩猟や採集によって暮らしていたときに直面した選択圧のもとで進化したものだということです。

ネアンデルタール人の行動の一見矛盾と見えるところ≪あるところでは現代人に近いのに、あるところでは原始的≫はネアンデルタール人の心の性質を再構成するための有力な証拠となります。そうすることによって、我々は現代人類の心の根本的な特徴に関する手がかりを得ることになります。

心を一種のコンピューターのような汎用学習機械とみるのは、間違いだという方向にあります。進化心理学者たちは、それに代えて、スイス・アーミー・ナイフ心を専門化した「モジュール」の並んだもの、つまりそれぞれが特定の型の行動を担当する「認知領域」あるいは「いろいろな知能」が並んだものと見るべきだと論じています。たとえば言語を習得するためのモジュール、社会的なやりとりに加わるためのモジュール、道具を利用する能力のモジュールというふうに。

この十年の間に多くの心理学者が言ってきたことは
『心は汎用プログラムを走らせているのではないし、スポンジのように、無差別にまわりにある情報を何でも吸い上げるものでもない。スイス・アーミー・ナイフのようなものだ』というのです。
スイス・アーミー・ナイフとは小さな鋏とか鋸とかピンセットとかの特化した道具がたくさんついている大型のナイフ類の一つです。それらの道具の一つ一つは、それぞれ特殊な問題を処理するようにできています。

チンパンジーの「社会的なことにかかわるモジュール」はヒトの子供の能力をはるかに超えているのに、言葉に関するモジュールは3歳の子供にも相当しないし、「博物学に関するモジュール」や他の各モジュール間の繋がりに欠けているものと考えられます。ワタシ達は各モジュール間のつながりが可能となったおかげで一般知能モジュールが進化し各モジュール間の矛盾に対処できるようになっています。

少し具体例を挙げて説明してみます。
お肉は旨そうなのに、ペットは食べ物としては見ない。
これは牛、豚、鳥などは「食い物に対する心のモジュール」としてみているが、ペットは助け合う「家族もしくは仲間に対しての心のモジュール」として対応していると思います。

心は我々の種が進化してくる歴史の中で直面した選択圧によって構築され、調整されてきた、進化した機構と言うわけです。『裸のサル』の現代の生活様式は、進化論的な見方からするとほんのわずかな時間にしかならないので我々の心はまだ当時の生活のあり方に適応したままなのです。
このために民族・宗教・国家・家族という中で、様々な心の問題が生じてきているように思います。

遊 記

参考図書
「言葉の起源〜サルの毛繕い人のゴシップ」ロビン・ダンパー著 青土社
「悪魔に仕える牧師」リチャード・ドーキンス著 早川書房
「喪失と獲得〜進化心理学から見た心と体」ニコラス・ハンフリー著 紀伊国屋書店 
「心の先史時代」スティーブン・ミズン著 青土社
「ミミズと土」ダーウィン著


 

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